こんにちは。小野ひかりです。
ブログを立ち上げてから、拙い文章しか書けない自分を反省するようになり、心に響く表現を探しながら読書するようになりました。
久しぶりに手に取った村上春樹さんの『ノルウエイの森』。
私が特に心に残ったのは、親友を突然失った主人公が述懐する以下の言葉です。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。
つまり「死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々をとらえるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ」と。
生はこちら側にあり、死は向こう側にある。
僕はこちら側にいて、向こう側にいない。しかし、友人の死を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生)を考えることはできなくなってしまった。
死は生の対極存在なんかではない。
死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れさることのできないものではないのだ。
『ノルウェイの森』より
普段、私たちは「死」を真面目に考えることはなく、「死」は、自分の生活の向こう側にあると思っています。
いつかは死ぬけど、それはまだずっと先、と思っているということです。
しかしそれは「単純な見方だった」と、『ノルウェイの森』の主人公は語ります。
彼は友人の死を境にして、「死は自分の“生”に本来的に既に含まれている」との思いにいたったのでした。
この主人公の言葉から思い起こすのが「生死一如(しょうじいちにょ)」という仏教の言葉です。
「生と死は一つの如し」
「生きる」ことと「死ぬ」ことは紙の表と裏のような密接不離な関係であり、決して切り離して考えることはできないという意味の言葉です。
常に「生」と背中合わせにあるのが「死」なのですよ、とお釈迦様は説かれているのです。
仏教が説く、幸せになれる「たった一つのモノサシ」とは
いくら生と死は密接不離だといわれても、生活に忙しい私たちにとって「死」は常に他人事です。
「死ぬことなんか、考えたこともない」「死んだら死んだ時さ」と受け流しています。
考えてみれば日々のニュースは、誰も予測をしないタイミングで突如として「死」が訪れることを実証しているのですし、「次はあなたの番かも知れませんよ」と私に警笛を鳴らして知らせてくれているようなものなのですが、その警笛にも少しも驚かず「まさか自分にそんなことは」「まだまだ大丈夫」と、やはり遠くの出来事にしてしまっています。
ところがそんな私たちでも、否応なしに「死」に目を向けさせられるときがあり
ます。
それは、身近な家族や親友を失った時です。
ノルウェイの森の主人公も、そうでした。
かけがえのない友人の死を境に、彼は死から目を背けることができなくなってしまったのでした。
お釈迦様は「身近な人の死、大切な人の死は、あなたにとても大切なことを気付かせてくれる人生の出来事なのですよ」と説かれています。
そして葬儀や法事は、「死」を見つめ、改めて自己の「生」を見つめ直すかけがえのない機会ですよと、その意義を教えられています。
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