こんにちは。仏教を学んで心が元気いっぱい!小野ひかりです。
今、あなたの隣の人。
どうしてその人は、そこにいるのでしょうか?
隣の人は好きな人ですか。それとも嫌いな人ですか。
なぜあなたの隣は、その人なのでしょう。
70億の人がいるのに、今、なぜその人が自分の隣にいるのか。
袖触れ合うも多生の縁
『袖触れ合うも多生の縁』
袖が触れ合う、というのは、非常に接近している状態です。
東京と大阪では袖は触れ合えません。
となりに座る人、前に座る人、後ろに座っている人。
どうしてそのような人と人との関係が起きたのか。
「偶然だよ」と聞こえてきそうですが、仏教では、その人と「縁」があったからだ、と説かれています。
一つの結果には、必ずそうなる原因があり、縁がある。
これを仏教では「因縁果の道理」といって、仏教の根幹を成す教えです。
隣の人と私とは、何かしらの関係があって、そういう結果が今、おきているのです。
それは昨日とか、10年前におきたとか、そんな短い間のことではないので、『袖触れ合うも多生の縁』といわれるのです。
多生の縁、とは、何千年、何万年、何億年、遠い遠い昔、縁ができ、育まれ、それにより、隣に今座っている、という結果があります。
愛し合うのも、近いからです。
けんかするのも、近いからです。
東京と大阪ではけんかもできません。
テレビでたまたま見かけた街頭インタビューの人に、腹が立って仕方ない、ということはありません。
「あの人さえいなくなれば」とまで思えてきてしまうのも、近くにいる人だからです。
同じ職場の人とか、一緒に住まいしている家族とか・・・
「気にかかって仕方ない」のも「顔も見たくない」のも、縁の深い人なのです。
夫婦はお互い深い深いご縁のある人
「夫婦は過去世、仇(かたき)同士だった」と言われるほどです。
「ここで会ったは百年目、盲亀浮木(もうきふぼく)優曇華(うどんげ)の花、いざ尋常に勝負勝負」という仇討ちの場面の決まり文句があります。
「盲亀浮木(もうきふぼく)」とは、目の見えない一匹の亀が、大海に浮く一本の丸太ん棒の穴にちょうど首を入れることがあるようなもの、という意味で、めったにないことをお釈迦さまが例えられたものです。
「優曇華(うどんげ)の花」も、仏典に説かれている、何千年に一度しか咲かない花のことです。
親を殺された侍が、仇討ちのために何年も剣の修行をして、免許皆伝の腕を身につけた後、仇討ちの旅に出ます。
それから何年も何十年も探し歩いた末に、ようやく親を殺した仇を見つけた時「ここであったが百年目」の言葉になるのです。
見失ってしまい、会いたい会いたいと探し続けた相手に、「今生やっと会えた」といえるのが、夫婦なのでしょう。
ほおっておけない相手だからこそ、恋人・夫婦はケンカもするのです。
しかしどんなに深い縁でも「しばらくの間」のこと。
いつまでも一緒にはいられません。
今日あって、明日どうなるか判りません。
悲しいことですが、いつかは別れていく相手です。
だからこそ「今、かけがえないこのご縁を大切にしていこう」と育む気持ちが生まれるのでしょう。
好き嫌いは縁によるから仕方がない
どんな人にでも、好き嫌いはあります。
教師にも、担当のクラスの生徒に好き嫌いはあるでしょうし、職場の上司も、気が合う部下と、気が合わない部下はあるでしょう。
もちろん教師と生徒の間でも、会社の組織でも、好き嫌いの感情をあらわにするのはあってはならないことですが、そういう感情があるのは人間である以上、仕方がないものです。
そしてこれも言えることですが、教師に好かれる人は、必ずしも「従順でまじめな生徒」ということでもありません。
上司の嫌いな人は、必ずしも「仕事のできない人」というものでもありません。
好き嫌いは、その人との『縁』で決まる、とお釈迦さまは教えられています。
しかもその『縁』は、今生だけでなく、何世にもわたる遠い過去世からの縁だと説かれています。
あなたの気になる人は縁のある人です。
クラスメイトでも「好きで好きで仕方なかった人」や「今でもよくその人のことを思い出す人」は縁のある人、逆に「顔見るのもイヤだった人」も縁のある人です。
名前を聞いても顔を思い出せなかったり、同窓会で顔を見ても、こんな人いたっけ、という人は、同じクラスになったのだから、縁の無い人ではありませんが、あなたと縁が薄い人だったといえるでしょう。
これは教師でもそうで、教師は1~2年で担当が変わりますが、勤続20年のベテラン教師にもなれば、相当多くの生徒と接したことになりますが、その中には十何年経っても、忘れられない強い印象を残している生徒もあれば、よく思い出せない生徒もあるでしょう。
これもその教師とその生徒の縁の問題です。
人生には、無視されたり、評価されなかったりして、辛く寂しい思いをすることもあります。
そんな時、「自分の何が悪いんだろう」と反省し、努力する心がけも大事なことですが、いたずらにくよくよして、悶々と悩むのもよくないといえます。
どうしたって自分と縁のない人はあります。
自分から人が去っていっても、さほど悲観することはない。
自分を慕ってくる人があっても、有頂天になることもない。
縁の問題です。
人生は短い。
「付いた」「離れた」で一喜一憂していてはもったいない。
必ずあなたを待っている人、あなたの長所を見出して、伸ばしてくれる人、そういう、あなたと縁のある人との出会いがきっとあります。
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