私たちは人の役に立っているときは生きがいを感じますし、たよられると、がんばらなければと奮い立ちます。
逆に誰の役にも立たず、誰からもたよりにされなくなると、意気消沈してしまいます。
「お金や物がないから、誰かの力にもなれない。資格や知識もないので、誰かの役にも立てない、自分なんかいてもいなくても一緒」とつい元気を失ってしまいます。
そんな人にお釈迦様は「金も才能も知識がなくても、心がけ一つで、人の役に立てますよ、人を支えることができますよ」と教えられています。
お釈迦様が教えられた、誰にでもできる親切とは?
それが『雑宝蔵経』(ぞうほうぞうきょう)というお経に説かれている、無財の七施(むざいのしちせ)です。
今日はその一つ、「眼施(げんせ)」についてお話しします。
「眼施(げんせ)」とは、「眼を与えて」親切するということです。
「眼を与える親切?なんだそれ?」と思われる方も多いと思います。
「眼施(げんせ)」とは、温かいまなざしで人と接することです。
眼にたたえられた和やかな光が、どんなにこそ人をなぐさめ、励ますことでしょう。
特につらい時、打ちひしがれたとき、和やかな眼差しが心に染みわたるものです。
私の職場の先輩が小学生の娘の授業参観の時、人気者の担任の先生の授業にとても感動したと言っていました。
その先生は、クラスのみんなを一人一人見て話しをしていて、その子供を見つめるどこかうれしそうな、やさしい目が、子供たちの心を開くのか、子供対がすごく打ち解けていたそうです。子供は、担任の先生のことをよく見ているものですね。
先生の温かい眼差しから、子供たちは、この先生は自分のことを好きでいてくれる、信頼してくれると感じるのだろうなと思います。
親切をする時に最も大切なこと
昔から「眼は口よりも物を言う」とか、「眼は心の鏡」と言われるように、「眼」は、「心」が一番表れるところだと思います。
心を表す眼の慣用表現はすごく多いです。
「目が死んでいる」うつろで覇気(はき)がない様子。
「瞳がキラキラ光る」強い興味・関心を示しているさま。
「尖(とが)った目つき」 真剣で厳しいさま。
「目が泳ぐ」後ろめたいことを指摘され、心が動揺しているさま。
目ほど、心を表すところはない。
そうなると「眼施(げんせ)」とは、優しい心で人と接しなさいという勧めになりますね。
そのひとみに現れた小さな親切が、接する人にとって大きな幸せの栄養源になっているのかしれませんね。