一言で怒りの心といっても、日本語にもいろいろな表現があるものです。
「気分を害する」「機嫌が悪い」「ご機嫌斜め」
「憤(いきどお)る」「頭にくる」「頭に血が上る」「怒り心頭」・・・
怒りのボルテージが様々で、それに応じた怒りの表現がとられます。
さらに言えば、
「カッカしてる」「イラッとする」「イライラする」
「カチンとくる」「ムカムカする」「ムカつく」「キレる」「ブチキレる」
などパッと思い浮かぶだけでもいろいろ出てきますね。
そのさまざまな表現から怒りの心で人生を台無しにしている人間の実態も知らされてくるようです。
怒りは三大煩悩の一つで恐ろしい心
仏教でも怒りのことを「瞋恚」(しんい)といい、三大煩悩の一つに数えられます。
私たちを煩わせる悩ませる煩悩は108あります。
特に大きな心が三つあり、怒りはその一つなのです。
実際どうでしょう。
腹が立つことほど、自分を苦しませ嫌なことはないのではないでしょうか。
職場の同僚の讒言(ざんげん)で左遷させられ、怒りの炎に身を焦がす人がいます。
その場合、左遷の地での不便な生活が嫌だというよりもあいつのせいでこんな目に、と腹を立てていることで、心が苦しくなってくるのです。
こんなことで怒ってエネルギー使っているのもばかばかしい。
もっと建設的なことを考えようと、気持ちを切り替えると、左遷されたその地でのきれいな自然や、そこで触れる温かい人情など今までの人生にはなかった、様々な幸せを見つけることだってできるのです。
あいつのせいで、こいつのせいで苦しんでいるんだ、と思いがちですが、あいつのせいで、と怒りの炎を燃やしていることで、自分を自分で苦しめているのではないでしょうか。
これを「自業苦(じごく)」といいます。
自分の業(行為)で自らを苦しめているのです。
私たちも他人からすれば「何をそんなに苦しんでいるの?」と疑問に思われるようなことで大変苦しむことがあります。
客観的に見れば、苦しまなくてもいいことを苦しむのは、まさに自分の心が生み出している自業苦に他なりません。
私の心を苦しめているのは「あいつ」でもなければ「こいつ」でもない。
内なる自己の怒りの心なのです。
怒りの心は人生を失敗させる
怒っている人間には近寄りたくありません。
楽しくないからです。
機嫌悪い人の近くは空気が重くなります。
下手すると八つ当たりされるかもしれない、と腫れ物を触るように接しますから肩も凝る。
できることなら一緒にいたくない人です。
愚痴と文句ばかり言い散らす人はどれだけその言動が周りを苦しませているか自覚すべきです。
「なんでお前はこうなんだ!」と腹を立てているその言動こそが「なんでお前はそうなんだ」と正されなければならないでしょう。
スティーブン・コビーの『七つの習慣』のもこのようにあります。
結婚生活に問題を抱えているとすれば、妻の欠点を延々と指摘することに何の意味があるだろうか。
それは単に自分自身を責任がない、無力な被害者に仕立てるだけであり、自らの行動する力を放棄しているにすぎない。
やがては、妻に影響を及ぼす力も失(な)くなるだろう。
叱責し、批判し、とがめ続ければ、彼女はあなたの思いやりのなさを理由に自分の悪い行動を正当化できると感じるだろう。あなたの批判は、改めようとしている妻の行動よりも有害なのだ。
怒りをぶつけられている当事者が苦しい思いをするのはもちろんですが、周りで聞いている人も不快な気持ちにさせます。
夫婦仲の冷えた家庭の子供は大変なストレスを抱えています。
自分の一番大好きで、支えにしている二人が罵り合うのを聞かされる子供はたまったものではありません。
職場でも怒っている上司に部下は委縮してしまいます。
報告もしづらいし、相談もできません。
怒りをぶつけられるのが嫌で事なかれ主義になり、ミスや成果不信も隠ぺいするようになります。
生産的な仕事はもうできないでしょう。
趣味のサークルでも同様です。
来てほしくない人、のレッテルがひそかにはられてしまいます。
怒っている人の周りには人がいなくなります。
【人去りて知る身の不徳】
お釈迦様が『瞋恚(しんい)【怒りの心】』を、私たちを煩わせ、悩ませる、三大煩悩の一つに数えられていることが深く首肯されてきます。
「仏道を習うは自己をならうなり」
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